傳 山崎 次郎 (3) 傳 山 崎 次 郎 の 余 生
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目次
余生
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余生
退官後は、昭和12年(1937年)、700坪の邸に、竹馬の友、中村與資平氏設計による車寄せのある100坪の2階屋洋館を建築した。
門を入ると左右に四/五本のヒマラヤ杉が聳えていた。
屋内設備は戦前にもかかわらず、既に欧米並で、浄化槽を設けた水洗トイレで,ヴィデもついていたし、浄化槽のメタン瓦斯を燃料に利用。また暖房は粉炭を焚くセントラル・ヒーティング・システムとなっていた。
俳句、日本画製作三昧の生活であったが、太平洋戦争に際会し、一人息子を野戦に送ることとなり、やがて静岡縣浜松在に疎開する。艦砲射撃、爆撃の下に生活、大震災にも遭遇したが、
終戦間近に帰京、細々と不安の生活を送っていた。
終戦となり息子は無事復員、中村氏息女と結婚。男一人、女二人の孫に恵まれることになるが、
家屋敷は進駐軍に接収されてしまった。
隣の30坪ほどの平屋(昭和16年築)に移り耐乏生活に入った。
この家は戦時中ドイツ大使館の独身館員(ミュウゲ氏)が借りていた。
昭和12年以前は世田谷に住んでいたが、この家は畑俊六大将の懇望に応じてお譲りした。
本籍地は渋谷区松涛になっているが、永田町外務省官舎や青山南町に住んでいたこともある。
晩年は宿痾の喘息に悩まされていたが、国立病院長、坂口先生や小山先生の診断も受け、
家族の手厚い看護のもと、家族に囲まれて穏やかに転生した。
ノース香雪さんの「ご転生の趣、合掌」の添書のある仏画が届いていた。
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昭和33年(戊戌)1958年10月29日享年78歳。
戒名 白雲院浄山遅水禅居士
外交官 元公使 青木 新 氏の弔辞
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杉並区善福寺在 ご隠居様方 俳句友達のお一人
迷羊さま弔文
偲 び 草
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2003.10.29