偲 び 草

迷羊
 
人柄や物腰から見て、翁は何の不自由も屈託もなく平坦な人生行路を辿って来られた
ことと想って居りました処、
実際はその反対で随分苦難の道を歩いて来られた事を知り、
一入畏敬の念を深くした次第であります。

 運動場を含む今の浜松高校の敷地を譲つて
尚広大な地所が残ったと言ふ山崎家は
大した豪家だつたことは容易に想像出来るのでありますが、
天は二物を与へず、子供に恵まれない儘、
秀才教育を思ひ立ち、
主席だつたり、あらゆる条件が揃って居たので翁に白羽の矢を立て、
再三再四断られても、断らるれば断られる程尚欲しくなり、翁も懇望もだし難く、
終に山崎姓を名乗ることとなり、
中学卒業直後同窓十二人と共に一高を受験、
合格したのは翁一人で、

これを契機に地所その他を金に換え、一家を纏めて東京に移住された時、
生活は永久に保証出来る丈のものを懐にして居られた由であります。 

何時どうしてそれを失われたか知る由もありませんが、段々窮乏の生活に陥り、
翁の東大卒業前はその極に達し、
四人の学資丈でも並大抵でないのに、
その内一人は入院、その費用の稔出に苦慮せねばならず、父母の面倒などで寧日なく、
おちおち勉強の暇などない事を知っていた人々は、
あんな苦労をしながらよく卒業出来たと驚異の眼を見張っていたと言ふことであります。
 
当時外務省の利ケ者倉知鉄吉さんを尋ね
弥々腹をきめ一度で外交官の試験に合格、
口頭試問に豪快な逸話があつた相でありますが
今と成つては「ノートレース」でどうにも調べる手がありません。
 
試験の中で最も難しいのが高文で、それに加ふるに厄介な語学が並大抵でない ので一層難しく、
而も採用人員が非常に少ないと言うので、さなきだに狭き門がもう一段と狭くなり、
最も難しい外交官試験に合格したのだから大いに喜んで貰えると思いきや、
父母の面倒を見るのが厭さに外国え逃避するのだとの誤解を招き、
勘当と言う思いもよらぬ結果となつて仕舞いました。

 私をして言はしむれば
一高入学の当時から翁は外交官志望で
当然進むべき道を辿っただけで
両親の認識不足も亦甚だしいと思うのでありますが、
矢は既に弦を離れて仕舞つた後の祭でどうにもなりません。
 
外交官の試験に合格したからとての勘当とは誠に空前絶後のことで、
勘当史上唯一無二特筆大書すべき出来事で
流石の翁も開いたロがふさがらなかつた事と思います。

芝罘領事館詰の辞令を手にしたのを機会に
詫びに出かけた時も
筋を通して来ない以上敷居を跨がす事は出来ないとて
追い返された相であります。
翁の心中が察せられ、すごすご帰つて行かれる後姿が見えるではありませんか。

 東大卒業と共に徴兵猶予の期限が切れ、
検査を受けると合格したので普通なら一年志願と言う所なのでありますが、
納めなければならぬ百八円は兎に角、
承諾を意味する父の連署が得られない為、
二年兵役として普通の兵と同様の生活を送らねばならぬ事になつて仕舞いました。
一年志願と較べると天地雲壌の差で
兵営生活をして来た私には理解と同情の一層深く切なるものがあるのであります。
 
外交官としての苦心や功績、本省の経理課長として関東大震災後の緊縮財政の功労顕著なこと、
等枚挙に遑ありませんが、
それよりも風雪時代の方が教えられ励ませられる事が多いので得意時代の事は割愛させて頂きます。
 
月は違えど二十九日は翁の命日で私の誕生日でもあります。
 
祖父を失つた事によつて初めて死と言う一大事因縁に遭遇したのも私と元君とは同じ年でした。
翁は地下に眠つていても孫達の中に一生生き、
殊に元君の中には何時までもはつきり生きて居られる事は
私の体験から間違いなく言えるのであリます。
翁はあらゆる試練、難難辛苦、困苦欠乏等に耐え
「難難汝を玉にす」と言っ格言を地で行ってあれ丈の出世をなされ、
大人格を築き上げ、立志伝中の人と成られ、
勤勉で豪放で大悟徹底
従容として穏やかな秋日和に辞かに逝かれたのみならず、
死後の事まで細大漏らさずちやんと決めてゆかれるなど、
真似の出来る事ではありません。
かように偉大な祖父は死後尚児孫を激励し鞭撻し善導し
幸福をもたらす事と存じます。