俳句
     

       菊薫る句に相見ゆ友の亡き          夢人
                            外務省俳句会
                                 下田 健一郎
                       ○

霞関会会報 昭和三十三年十二月号(No.154)

「山崎傀堂(次郎)さんの俳句の思い出」
                              三宅一鳴(哲一郎)

芭蕉の古今に絶する名吟に
       この秋は何で年寄る雲に鳥
がある。
昭和三十一年九月霞関会会報に     
      秋立つや 宿痾に仰ぐ 空の瑠璃
が載っていた。私はこの作品を見たときに、傀堂さんの当時の心境が芭蕉のそれと一脈相通じるもののあることを発見した。実際この俳句は同君の全作品を通じての屈指の秀句であるとも考えられる。

(山崎次郎は喘息に悩んでいました。俳号は曳馬、黄士、遅泉、遅水、傀堂などをつかっておりました。編者註)

昭和三十二年十月(同)
      生残る幸 新涼の社寺を巡る         傀堂
      新涼や朝餉に光る茄子の瑠璃

昭和十四年 白人会会報(雑誌 木太刀)
      高はごや 木末に雲の 去来する     (十一月)
      囮かご 抱いて茨に 分け入りぬ         (同)
      風炉鳴って 寒梅は香を 漂はす     (十二月)
      寒灸や 枯木に似たる 臑二本         (同)
      雪やまず まぼろしのごと 橇ゆきぬ     (一月)
      春の花 数へつくして 葱坊主         (三月)
      鳥雲に 入ってしまひぬ 里曲の灯      (四月)

昭和十五年〜昭和十八年 雑誌 木太刀
昭和十七年一月 木太刀同人に推挙された。
      朝月や 帰雁の羽風やはらかに
      熊笹に息ふく魚や 霰降る
      たくましき枝なるが寂し帰り花
      老鶴の脚に胼ある余寒かな
      鯉幟 木の間に流れ 晴れにけり
      蚊遣ふく 山風雨を さそふなり
      鳴子なりて 暮るる里川 流れけり
      献燈の淡くともりて 良夜かな
      日の草に 憩える人や 渡り鳥
      北山の 空うちくもり 冬至梅
      竹薮の一むら霜の月照りぬ
      草庵や あせび花咲く 狐雨
      馬酔木野や 松の切株脂吹けり
      夕照は 雲雀の雲に 残りけり
      鏡台に向ひて春を惜みけり 
      こほろぎを聞くとき老ゆる兵の母
      むかごちるや別れ烏の鳴く山に
      屋根替えて松のかげおく社かな 

十九年(1944年)雑誌の用紙統制から、木太刀は長谷川かな女さんの雑誌水明と合併し「木太刀水明」と改名したが、その六月の白人会の記事に「山崎傀堂氏遠州浜名の疎開地から出席」
      水すまし田に引く水にいて落ちず
      早乙女や鷺佇つ水は目のあたり

その後、東京の爆撃で星野麦人さんのお宅は全焼の災害を受け、木太刀は休刊のやむなきに至った。麦人さんの疎開により、終戦後日本クラブの俳句会の指導者は富安風生氏と交替した。

二十七年及び二十八年の霞吟社の句帖によると傀堂作品はほんの僅かである。
      朝霧を煽りてたたむ秋の蚊帳
      磯の波さしひく松の四十雀
      雲迷ふ孤燕に秋のふけにけり
格調高く幽玄味を交えた秀句が載っている。
二十九年から三十年にかけては毎月投句。この間に於ける傀堂の句境は戦前に比較して相当の変化が認められる。心境の冴えと表現の巧緻は益々進展の度を加えたほか、自然の客観的描写より、更に内面的に掘り下げた主観の動きが、クローズアップされるようになった。即ち二十九年には
      歓喜満つ大き乳房や初鏡
      蕗のとうに真綿の如き雲湧けり
      満天星の新芽の無数情厚く
      春愁を抑ふる胸の聖十字
      とかげなど見ているわれを幸とせん
      標本の髑髏の前に汗を拭く
      蜜豆や冷静に依る石の卓
      迅雷の思索を断ちて過ぎゆけり
      笹鳴や牛まつ牛舎日の落つ
      白猫の耳に冬日の血のめぐる
などの諸作品を遺しているが戦前の自然諷詠句に比べると、その境地に著しくちがったもののあることを発見する。
殊に
      夕月の寒き二月の薄目かな
      春愁や能面遂に笑はざる
の特異な主観や
      春蘭の花芽きざして愁あり
      梅雨晴やアパートの窓のあるかぎり
      妻の留守真夜の銀漢降りにけり
の美しい叙情や表現の巧緻は、特に指摘されねばならない。この傾向は次の三十年にも明らかに看取される。
      凪わたる雪嶺を恒に冬椿
      一生を踏む麦ならず踏み急ぐ
      麦を踏む傴僂に昼の月かかり
      春燈下傷の痕ある女かな
      夏来ると情こまやかに蜘蛛巣立つ
      零落の袷派手なる媼かな
      蟹の眼に指呼の島山火煙噴く
      暑に堪へし黒髪洗ふ月明り
      海近く夾竹桃に親しめり
      月は既望渓中のもの皆奏づ
      秋立つや流転のさだめ身につけて
      秋濤や瑠璃天を縫う飛行雲
      蜩に露の日輪すみのぼる
      水鳥の夕づく声に舟さかる
      鉄窓や寒日輪の疾き歩み
などはその代表的なもので、就中
      春暁の闇むらさきに薄目して
      燈籠の草かげろふは逐ひがたし
      花の影恍惚と詩を忘れ居り
      仲秋の雨露の起居の素直なる
の如きは舌頭百遍飽くところを知らない。しかしこの年には
      はたはたや文化の都市に生き疲れ
      球根植う鋤とる腕の衰へに
また三十一年には本稿冒頭の三句や
      聴力の衰へ淋し小鳥来る
と詠んで心身両面の疲労を連想せしめる等の作品が散見された。
昨年(三十二年)十二月の
      貧乏は罪にあらずと夜霜ふむ
のある社会面を描写した一句は、私達 霞吟社一同の眼にふれた最後のものであった。名残惜しい限りである。
最後に私は下の拙句を捧げて傀堂さんの冥福を祈りたい。
      冬茜燃えつくすまの時雨かな     一鳴

                               ○